バックアップメモ。

制服というのは、所謂職場や学校など社会の中でのまたもう一つ小さな括りの中で頻繁に使われる装飾、服装の名称である。
勿論その意味としては、その職場や学校、ハタマタ特別な状況下における機能性、利便性を追及したものとしてもある事はあるが、大半はその環境における規律または統合性、環境が環境足らしめる重要的な要素、互いの精神における協調性や仲間意識を高めることが使用目的の主たるものとしてもほとんど間違いでは無いだろう。
つまりは制服という同じ装飾や服装を互いに使うことによって、その環境にての同調を高め斯く斯くが行う作業や行動をカテゴライズし作業に対しての違和感を緩和することができる。また役割というインタンジブルなものを制服によりタンジブル化することにより、誰しもの考えにも容易に認識でき、それは勿論制服を使用する立場の者たちだけではなく其れをハタから認識する人達にも適応される、また制服による立場的見解を行うことで簡単に人間のカテゴライズ化をすることができ、より「役割」によって自分独自の思想は持てずにある種環境による自分がどういう思想であるべきか、誰しもが持っている演技性人格の形成や環境における個性という名のものと操作された価値観、最早それはプログラムのように万人に影響を与えるものだが、など今の現代社会の人間の精神のあり方、形成の仕方への大きな手助けになることが言える。
勿論若き時、また反社会的な人間にはこういった風潮を好しとはせず、敢えて制服の持つ統一性、完璧的なそれを歪曲したり、或いはその環境に適した制服を違うものへととって変えたり、所謂自分個人の趣向に偏った形にと考えたりもするが、それ自体が反逆的な制服であるとも言え、つまりはその環境下における完全に調和した制服を着ないという手段による「制服」というものを知らず知らずのうちに身に着けていると言え、誰しもが自由という名目の元に社会的な地位や自分の思想の位置づけによって制服を着ているのは明らかに明確で、それから逃れようと抗うこと自体が最早制服の魔力に取り付かれているといっても過言ではなく、自らはそれによって自分の特別性を主張した気になり満足を得ていたとしても、カテゴライズの動きからは逃れられないものであり、其れに対する認識も得ないままで個人としての制服への反逆を行おうと試みているものはまさに本末転倒であり、認識の不足と言うほか無い。
一部の人間の中にはこの制服に対して特別な性的欲求を感じるものも居る。それは勿論制服の装飾的魅力も大分あるとも言えるが、これはその制服の性質としてもっている役割こそが其れを担っていると思える。対象となる制服は一般的にほとんど性的な環境には無縁なもので、その役割を侵すという冒涜的な性的行為、またはその役割を連想することにより、自らの経験における場面を想定し、その過去のリピーターとして制服を楽しむことにより例えばその役割に抱えた劣等感を緩和させ、屈服させることによりあたかもその役割さえ屈服し、独占し、蹂躙しているかの錯覚を抱えることができる其れこそが、制服に対する強い性的欲求の源泉なのではないかと思う。つまりは役割と自分との関係を一度完膚なきまでに破壊し、その上での自分の有意性を持った関係の構築を思うままにしているという、演技性の高い演出を行っているのと等しく、現実的でない空虚の中で自らの役目を勝手に想定しそれに準じることにより、自らとその制服を着ている対象を自ら望んだ関係性へと転換する擬似経験、それ自体に性的欲求を感じるというものではないだろうか。まさにこれは、人間がそれだけ役割に固執していることを証明することに一役買っているだろうし、広義的な意味の制服としてのあり方もよくあらわされていると思う。