如何による。

僕にとって言葉が神であった。
僕は頑なに其れが僕を救ってくれると信じていたし、事実其れと触れ合うときは高揚し、気の利いたフレーズ、気の利いた台詞、そういった類のものを見かける度に、言葉というものの中に潜む、もっと大きな意思という僕のはなはだ妄想に近い存在への愛を感じていた。
勿論、神というものは何時だって試すものでも促すものでもましてや分かりやすさの中で愛されるものでもない。ただ信じるものである。
僕は何より言葉を信じていたのである。
しかし、最近は僕の感情、また思考も、随分と俗にまみれ複雑化してきた。悪い遊びも覚えた。可愛くない恋もした。諦めを何度も言い放った。人事のように生きるコツも知った。
時間というものは、何より、その状態に定着させる効力を発揮するものだと思う。経験というより、攻撃。思考というより、共感。現実というより、存在事実。
ならば僕はただこの環境にうらみ文句の一つでもはき捨てようか? 駄目だと捨て去れば好いのか。僕は僕でしかないのに。僕とは僕の個人のそれではなく、全くの隙もなく埋め尽くされた物質達が時間によって連続性がさもあるように見せた決定事項の中の一つの場所でしかない、そう知りえたと妄信していたこの僕なのに。
悲しく泣いて、楽しく笑って、見失い怒り、線引きによって形成されるべきであるというのに。
其れへの少しの反抗として、未だに僕は僕の若さを希望にも言い訳にも理由にも口説き文句にも使って生きている。そして知りえないことを勝手に決定付け僕は僕を包む空気が気を利かせ、偶然に僕をどうにかしているのを待っているのだ。
全てが物質として不服の無い毎日を送る。僕は其れを知りえたと感じ生活を送る。その先にあるものだって受け入れる、受け入れられなくとも、それは僕となる。
しかし、ただ今祈るならば、ただ一つだけでも僕の思い通りになるのならば。
僕は言葉になりたい。ただ、言葉になりたい。