三島由紀夫

 芸術の上では百万人の人を殺しても、ただ紙の上で殺すにすぎないのに、一たん現実の行為に入ると、百万人の殺人は歴史上ぬぐいがたい罪になるのである。すなわち、芸術はどこまでいっても無責任の体系であるのに、政治行為はまず責任から出発しなければならない。そして政治行為は、あくまで結果責任によって評価されるから、たとえ動機が私利私欲であっても、結果がすばらしければ、政治家として許される。また、動機がいかに純粋であっても、結果が見るもおそろしいものになった場合に、その責任はみずからが取らなければならない。
 現在の政治的状況は、芸術の無責任さを政治へ導入し、人生すべてがフィクションに化し、社会すべてが劇場に化し、民衆すべてがテレビの観客に化し、その上で行なわれることが最終的には芸術の政治化であって、真のファクトの厳粛さ、責任の厳粛さに到達しないというところにあると言えよう。
 東大安田城攻防戦は、大ぜいの観客を集め、人々はテレビドラマに飽きた目をブラウン管に向けて、時の移るのを忘れた。あるイギリス人のことばによれば、それは巨大なシアターであった。そこに登場する俳優は遺書を書き、「かっこよく散るぞ」という落書をして、あたかも死のポーズを見せたが、一人として死ぬ者はなく、手をあげて全員逮捕された。そしてその一幕は終ってしまい、人々はまたその芝居を忘れて、日常の生活へ帰っていった。
 しばらくして、二月十一日の建国記念日に、一人の青年がテレビの前でもなく、観客の前でもなく、暗い工場場の陰で焼身自殺した。そこには、実に厳粛なファクトがあり、責任があった。芸術がどうしても及ばないものは、この焼身自殺のような政治行為であって、またここに至らない政治行為であるならば、芸術はどこまでも自分の自立性と権威を誇っていることができるのである。私は、この焼身自殺した江藤小三郎青年の「本気」というものに、夢あるいは芸術としての政治に対する最も強烈な批評を読んだ一人である。


三島由紀夫 「若きサムライのために」