僕は最低だ。
今までほどほどの親の期待を受け、そして其れにほどほどに答えられるだけの努力をしていた。
小学生のときも、中学生のときも、高校生だったときでさえ、親が僕に望んだ、「人並み」であるための努力、詰りは他人より怠慢を働かないこと、誰でもしている当たり前のことをきちんとするということ、生きていく上で最低限の、命を持っている上での最小限の努力をすることを、僕は忘れていなかった。
其れと同時に、他人に対して、気遣いを持つことも忘れてはいなかった。他人に対して、自分が想う優しさを信じ行動することを決して忘れなかった。他人を楽しませるために、確かに今思えば赤面するような馬鹿なことをしたかもしれない。くだらない事を言っていたかもしれない。其ればかりに気を取られ、現実に対して思慮をめぐらせることを怠っていたのかもしれない。しかし少なくとも、必要以上に他人を傷つけることなんて決してなかったし、思想が硬直し身動きが取れなくなるような、其れこそ生きる上では無意味で杜撰で本末転倒甚だしい行動を、知って知らずかは置いといたとしても、取ることなど決してなかった。
其れが僕の数少ない美点だった。人並みに努力をし人並みにそれを活かし、少し傲慢に言ってしまえば、勉強に対しては其れによって人並み以上の結果だって残せていたというところ。そして、人に常に優しく、少なくとも自分の中での最大の善意をもってして接する、気遣う、慈しもうとしていたというところ。
運動は駄目だった。しかしそれは個性と呼べる、笑い飛ばせる程度のものに過ぎない。
確かにあの頃から僕は恋愛などしたことがなかったし、そういう出来事からは何時だって蚊帳の外だった。女の子は、もっと魅力的でかっこよくて頭の好い男の子と恋愛をしていたし、僕はそもそも女の子と交流をするということに、なんとなくいけないことのような気がしていて、またそれ以上に恥ずかしくて、出来る限り避けていた。
友人はいたし、TVゲームも楽しかった。稀に小説だって読んだりしたし、それに日常の中の勉強だって割かし好きだった。
確かに恋愛が出来ないことに対して不満はあったが、それでも僕は十分満足だったと想う。


始めの僕の転機は何時だろう、と考えれば直ぐに思い浮かぶ出来事がある。
それは高校時代に遭遇した、僕の知人や肉親の死だろう。
僕は高校一年生の時に帰宅途中に親友と呼べるいつも一緒に登帰校を共にした友人を事故で失った。ふざけあいをした末、分かれ道で別れ、暫く先の踏み切りで合流する予定だった。友人はその合流すべき踏切で電車に轢かれ、一ヶ月強ほど植物状態になり、そして死んだ。
僕は驚いた。人が死ぬ、など信じられなかった。それは物語のスパイスであり、余りに特別なものだと信じて疑っていなかった。日常生活の中でそんなものが起こり得るなど想像もしなかった。確かに多少は若き日によくあるように、自分の人生は特別なものだと信じてはいた。しかし、死などというものは、どこか遠くの出来事だと信じていた。
友人が事故にあい、片足を失い、意識が戻らない時でさえ、死ぬとは想いもしなかった。寧ろ、目が覚めたら車椅子生活なのかしら? とかうちの学校の段差とかはどうしよう? だとか、目が覚めたらまずなんて声をかければいいんだろう? なんて考えてばかりだった。
勿論僕は泣いた。ただただ単純に泣いた。彼の親は僕に謝っていた。謝るのは僕のはずなのに。僕が彼の一番近くにいて、一番辛い目にあっている、と言った。そんなはずはない。肉親である彼らが一番悲しむ要素は多いはずだ。進学校の高校に受かって直ぐの話だ。彼はどんどんこれから可能性の道を選択し、大学を選び、そして就職して、彼らの親も其れを見て自らのこれまでの子への愛情や献身を報わなければならなかったはずだ。彼には恋人だっていた。中学のときから付き合っていた小柄でとても可愛い女の子だ。僕は話したこともなかったけれど、話や遠目から見た限りは、溌剌で明るい好い子だったと思う。
その事故の後、僕は一時期酷く無気力になったりした。親に、自分が死ねばよかったなどと言い捨てたこともあった。日差しを酷くまぶしく感じていた気がする。今まで大きな挫折も不幸もなくぬくぬく育っていた僕には、とても衝撃的な出来事だった。
そして暫く経ち、僕がそれでも時間と環境によって普段どおりになってきたとき、丁度夏休みに、今度は僕の父親が死んだ。
僕の父親は、小規模な会社を友人と二人で経営していた。工場などにあるクレーンを作ったり直したりする仕事だ。父は人付き合いがうまい人だった。家では内弁慶で、僕が小さい頃は母親との酷い喧嘩が絶えなかったが、高校に成る頃には随分と丸くなった人だった。後に聞いた話だと、会社での役割分担としては、僕の父が契約などをとったりする所謂営業部分中心的に行い、片割れの同僚が実務的なことを中心的にしていたそうだ。勿論、それはお互い協力し合っていたから、完全に仕事を分業していたわけではなかったようだが。
そして僕の父は、電気などの作業の途中に感電し、死んだ。業務上の事故死だ。
僕はもうわけが分からなくなった。突然すぎた。妹が泣きながら病院からの電話の話をしている中、僕はパソコンでゲームをしていた。そして僕はこれからどうすべきかすら、全く分からなかった。ゲーム画面をぼんやりと眺めて、窓からの日差しが酷くまぶしかったのを覚えている。
通夜と葬式は直ぐに行われた。喪主は確か親戚の叔父さんがしてくれたはずだ。僕は妹と一緒に、父へ送る最後の手紙、のようなものを書かされた。僕が文章を書き、妹が其れを推敲したり直したりしていたように記憶している。
葬式と通夜では、僕は涙が出なかった。ただ頭が真っ白になり、泣く妹や母親の隣で体を硬くしていた。その手紙を読むときですら、読みながら泣き始める妹の隣で、最後まで読みきった。
余談だが、親戚に後から聞いた話だと、その光景を見て、泣かない僕をみんなが不安に想っていたらしいとのこと。
僕はその時くらいから、詩を書くようになっていた。小説も少しずつ読むようになっていた。といっても、今のようにミステリ小説ではなく、専ら現代女性作家の恋愛小説ばかりだ。
詩は僕の考えをまとめるために書いていたと想う。二つの死を通して、若い僕には何らかの言葉には出来ない気持ちがあったのだろう。最初はとても拙く、読み返してみると恥ずかしいようなものばかりだったけれど、それでも少しずつ書き直したりして、恥ずかしくないくらいの詩を書く努力をした。
どんどん長くなっているから、少しずつはしょりながら書く。
そういうことを続けているうちに、今度は僕の祖母が死んだ。うちの父方の祖母で、父がいたころは同居していた。昔からうちの母親と祖母は折り合いが悪く、お互いに血が上りやすい人間だったし、父が死んだ後、どんどん関係がもつれ、遂には別居した。父は祖母と母の仲介役でもあったのだ。
本当ならば、うちの家族で一番血の気の少ない僕が、代わりに仲介すべきだった。(家の家系はどうも血の気の多い人が多い。妹も然り)しかし僕は、随分と子供で、二人の関係を取り持つことが出来るほど、頭も好くなかったようだ。
そして別居先で一人で暮らしていた祖母は、買い物の帰り道駅の階段でこけ、両手の荷物で受身も取れないまま、頭を酷く打って死んだ。
その頃に僕は、一つの考えにいたる。
人は余りにも簡単に死ぬものだ。
その考えを証明するかのように、僕のクラブの先輩や、友人の母親、僕の祖叔父さん、僕の祖父(この人が僕の最後の祖父母だった)、僕のクラスメイトが二人、それぞれ事故や病気で死んでしまった。
僕はその経験の末、死を身近に感じた。そして人生に焦りを感じ始めた。
だからこそ、将来選択の中で、僕は妥協せずに僕のやりたいことが学べるところに行こうと想った。
それが美術大学(僕は絵が描きたいというよりも、そのころから思い悩んでいた僕にとって、僕以上に感覚的なことを考えている人が沢山いるところとしての選択、そして何より、自分を表現するというものに惹かれての選択だったが)だった。
其れからは省略する。僕は無事今の美術大学に入った。
ここまでで、一応言っておく。決して僕は、これらの経験のせいで、僕が最初に述べたように「最低」になったわけではない。一つの僕に与えた変容によって、確かにその「最低」への道を作ってしまったということは否定しないが、寧ろこれらの経験は、僕を随分と成長させたと信じている。
さて、大学生になった僕は、当たり前だが、独り暮らしをはじめた。大学の授業は想像とは随分と違ったが、できないこともなかった。美術の大学生、少なくとも僕と好く関わる人間の大凡はみな思い悩む人間というよりは、どちらかというと技術を向上し、様々なアウトプットを続ける、思想観念に縛られない人たちだった。
其れが少しだけ僕の不満だったことは、紛れもない事実として記しておく。
最初のうちは随分と調子よくやっていたと想う。出来損ないながらも、なんとかやっていたと想う。
しかし、一人暮らしは、高校までの生活よりもはるかに、一人の時間を作った。高校のときの思い悩む時間がはるかに増えた。其れは生活に於いてのことではなくむしろ、思考のパズルのような戯れだった。詩も継続して書いた。今のウェブページに載っている詩は全て、大学に入ってから書いた詩だ。こうしてみると、随分と書いたと想う。
僕は常に思い悩んでいた。悩まなくてもいいことを悩み、感動できることがあれば其れについて考え、反芻を繰り返し、何かしらの結論を得ようとした。しかし、一人で思い悩むことは、いつだって不利益を得ることばかりだ。どんどん、マイナスを生み、どんどん生活に支障をきたした。考え自体が生活に支障をきたすのだ。生活の中で努力しなければいけないことを、まるで努力するのが駄目なことのように感じた時だってあった。思い煩うことが僕の大部分を占めた。そしてデザインをすることに反感を覚えた。言葉にすると、いくらでも反論できるような幼い反感だ。しかし、それでもその反感は僕の大部分を占めていた。頭では分かっていても、其れをとめることが出来なかった。
そして大学二年生になった頃には、完全に自暴自棄な日々を始めていた。煙草を覚えた僕は、ますます自堕落になった。そして軽度な精神病が始まった。
最初はきっと些細な変化なんだろう。落ち込むと何も出来なくなった。エネルギーが体から足りなかった。病院にいくと、気分変調症と診断された。薬は全く効かなかった。ただ眠くなるだけだった。
そして暫くすると、癇癪を起こしそうになった。些細なこと、大きな音などに機敏に反応するようになった。昔以上に挙動不審になってきた。その衝動を収めるため、アームカットなどもした。別に死にたいとかではなく、ただ純粋に何かを壊していないと爆発しそうだった。その標的としては、僕にとっては一番僕がちょうど好かった。一番壊したいものだっただろうし、周りに危害を加えることはないから。とは言っても、そこまで重症なものではなく、浅い傷ばかりだ。
病気と一進一退を続けながら、大学三年生になった。
完全に自堕落な生活に支配されていた。このとき短い間だけれども、恋人が出来たりもした。しかしすぐに振られた。僕は駄目なのだ。人の気持ちを考えようとしているくせに、結局はその人を無神経に傷つけてしまう。僕はどうもうまく出来ないのだ。僕の固まった思考回路のせいで、どうしても行動にひずみが出来るのだ。未だに彼女には申し訳なくって、申し訳なくって、本当に申し訳なくて。
そして大学三年生の後期になる頃には、完全に学校について行けなくなった。学校の授業でもできないことばかりだったし、そもそもカリキュラム自体休んでばかりで部屋に篭ってばかりいた。バンドだって僕の突然の閉じこもりのせいで、随分と迷惑をかけた。
この頃からだったと想う。僕は座っていると貧乏ゆすりが止まらなくなってきた。体が落ち着かないのだ。立ち上がっていても、歩き回っていないと耐えられなかった。酷いときは座って貧乏ゆすりをしていても、駄目だった。言葉にはうまく出来ないけれど、座っていられなかった。そしてグルグルグルグルあたりを回ったりしていた。心安らかになるのは横になっているときだけだった。それが拍車をかけ、学校には行かなくなった。
人がまわりに居るだけで逃げたくなった。僕を知っている人に会うのが苦痛だった。
病院で強い薬を貰った。薬を飲んでいる間は少しだけ気が楽になったような気がした。
学校が休みのときだけ、何の用事もないときだけ、随分と楽になっていた気がする。
自分にすること、やるべきことがあるのが酷く苦痛だった。何かをしなければいけないということに耐えられなかった。
あれも、鬱病のそれなのかは結局分からないままだったけれど。
大学三年生が終わったときは随分とほっとした。結果は最悪だったが、なんとか進級でき、そして何より、課題や授業などが全て終わり、僕にするべきことがなかったから。
この頃には余り詩も書けなくなってきた。今までは日常生活を送るだけで、何かしら考えることが在り、其れについて書けていたが、その頃は日常生活の中で考えることが余り思い浮かばずに、しかしただ漠然と思い悩み、最初の一行が出てこなかった。
そして大学四年生。挽回しようと想った。
春休みで病気の症状と呼べるものは随分と沈下された。春休みによるそういったやるべきことから開放されていたことと、薬のおかげだと想う。
授業は沢山取った。卒業単位を取るのには確かに絶望的だったが、それでも頑張ろうと想っていた。
しかし長くは続かなかった。やるべきことが増えるたびに、また酷く苦しくなった。其れが出来ないとかではない。やるべきことがある、しなければいけないことがある、それだけで、たったそれだけで、僕は重圧を感じ、直ぐに心が折れはじめたのだ。
授業も少しずつでなくなり、また引き篭もり始めたりもした。不幸中の幸いは、まだ、病気の症状が目に見える形で出てきてはないことぐらいだろう。
思い煩うことをやめることが出来なかった。どんどん日常生活が破綻していった。逃げることしか選択できなくなった。人付き合いも随分と下手糞になった。取り繕うことさえうまく出来なくなってきた。会いたくない人ばかり増えた。そんな自分を隠すことさえままならなくなってきた。
結局大学四年生の前期は散々な結果に終わった。


今までを軽く振り返ってみた。
昔と比べて想った。
僕は人並みに努力する、ということが、できずにいる。その存在の重圧だけに打ち負かされている。誰でも出来ることなのに、出来ない。何かをする、ということを恐れている。
そして今、僕は時々また癇癪が訪れそうで恐れている。もう昔みたいに、人の気持ちを気遣うことが出来ていない。情けなくも、自分に閉じこもっている。
結局、僕は、親が僕に望んだ、誰にでもできる、生きている上で大切な其れを、何一つできずにいる。
こんな僕が唯一持っていた、僅かな美点を、失ってしまった。
僕は最低だ。
凄く、最低だ。


何故このようなことを長々と書いたのか、というと。
ふと、昔見た泣ける話をネット上で見たから。其れを見ていたら、何だかとても情けなくなった。
今の僕は、ネットで分けも分からぬ戯言を書き、マンガや小説を読み漁り、刹那的な快楽に頼り、何も作らず、何も役に立つことをせず、ただただ落ちぶれている人間だ。
そこに何一つ、人間らしい尊厳も生命も気丈さもない。
僕は思い悩むばかりで何一つ行動が出来ない、情けない人間。
こんな僕を心から恥じている。
恥じているのに、変われない。
惨めで情けない。僕に好くしてくれた、僕を大切にしてくれた、僕を大事に想ってくれた、僕を見守ってくれた人たちに、何一つ報いることが出来ない。いや、僕がしないのだ。
ただ、一つだけ、たとえ誰からにも其れは嘘だとか、取り繕った言葉だ、だとか言われても、実際言われたとしても僕は反論の仕様がないけれど、本当に僕が想っていることがある。
僕は一度だって、貴方達を裏切りたいとは想ったことはない。貴方達を感謝せずにいたことなんて決してない。貴方達を馬鹿にするためにこんな僕になったわけじゃない。
もしも願いが叶うならば、もしも叶えてくれるのならば、僕はこんな僕ではなく、限りなく馬鹿で底が浅く愚かで能天気だったけれど一番人間らしく生活をし、そこそこの努力をし、そこそこに友人を作り、単純で無邪気でゲームが好きなくせに下手糞で、勉強が好きで、女の子が苦手で、ポルノの類には恥ずかしくて目をそむけて、どうしようもなく怖がりで、グロテスクなものがあるとビクビクしてもう駄目で、余り人に嫌われず、変なことを考えることもなく、そんな自分に疑問も持たず、少なくとも最低限の生活を積極的に行えるだけのエネルギーと考えがあった、昔の僕のまま生きていたかった。
恋が出来なくてもいい。夢が叶わなくてもいい。特別だなんてならなくたっていい。そこまでは望まない。ただ、それだけで僕は。