まさか此ほどまでに、世界は努力の光しか見い出せないなど、想いもしませんでした。
あれほど忌み嫌い、憎み、そして何より恐れていた、この努力というものを抱き締めながら世界が動いていたなど。
それは若しくは行動の連鎖、感覚の適応、経験からくる変化です。
僕の思考はパンクし、思想は破綻し、感性は歪です。これは何より、正当な努力を憎んだ結果です。
例えばコミュニケーションに於てです。
コミュニケーションのコツは自分を認め、限界を知り、そしてキチンと嫌われない演出をする事と聞きました。
僕は自尊心があまりに尊大で、しかし同時に確実に欠落しています。矛盾を感じるかも知れません。僕は僕に於て何一つ認めてはおりません。寧ろ嫌悪さえしています。だけれども何より傷つく、苦しむ、自分を殺す、その様な事が恐ろしく堪らなく嫌いなのです。
その欠落により、自分を認めることが出来ません。嫌悪感が抑えられません。ヘドが出ます。
しかし辿り考えてみると、その原因、その元凶は何れも此れも僕が努力を嫌うことに終結します。
詰まり自分を認めることが出来ぬというのは、僕が怠慢な人間である証拠なのです。
また限界を知ることも、努力により獲得しうる最大限の成果を恐れる僕の醜さが其れを好しとしません。
演出に於てなど、もう説明する必要もないでしょう。
僕が此ほどまでに憧れ嫉妬したコミュニケーション能力は、結局僕の歪んで愚かな思考回路が阻み続けていたのです。
努力は、何故こんなにも居着いて居るのでしょう。
僕が努力を憎むのは何故?