全てはフィクションであり幻想であり事実などあるはずが在りません。

拝啓、お母様。
まことに世の中は暗闇でした。
貴方の言うように、確かに世の中の細やかな出来事全て、悪趣味に思えてなりません。
誰しもが蔓延した病に侵され、その副作用を本質だと誤解しながら、高揚に浸っているのです。
そこには唯一つの高潔さも見当たりません。彼らは自らのその肉体でさえその事実を知らずに、ただただ欲望を果たしているばかりなのです。
何故人はそれ以外の人という都合の好い存在を信じて疑わないのでしょうか。そうして、まるで自らが何かに順じていると信じて疑わないのです。
彼らは狂っています。全てキチガイの為す事です。
毎晩のように口づけのごとくナイフで空けた新鮮な傷に吸い付き、愛し合うと誤解したまま陰部に口を当てらい尿を飲み干し、キャンディーの代わりに互いの三半規管を舐めあっているのです。
私は恐ろしい。私が見えているものは本当に事実と呼ばれるものなのでしょうか?
お母様。貴方は何時だって私に大人を急かしました。私のこの網膜に映る赤々とした地獄は私に大人が根付いていないからだと私を酷くぶちました。しかし、貴方は現実として確かにこの煉獄を知っていたはずなのでしょう? これほど下劣で悪趣味な世界を見知り、なお私を責め立てていたのでしょう?
この世界はこんなにも狂っている! この世界はこんなにも狂っている!
何故男は女に心がないと信じきっているのですか。何故其れを疑わずにハラワタに頬擦りなどしているのですか。何故女も男をアンナにも心がないと信じきっているのですか。何故其れを疑わずに羊の袋を三つ、それは赤く染まり時々道に滴りとても私は気味が悪いのです、何かの勲章のようにズルズルと引き摺り歩いているのですか。何故大人は子供を人間ではないと信じきっているのですか。何故其れを疑わずプールの排泄物を満たすためだと子供らに重水を注ぎ込むのですか。何故子供も大人を人間ではないと信じきっているのですか。何故其れを疑わず大人たちの毎晩の宴のスウプの中に彼らの処分したはずの水子をドロドロに溶かして流し込み、あんなに純粋に笑っているのですか?
お母様、私はこんな光景を見ているのです。事実見ているのです。貴方はそれを私の見え透いた気を引くための嘘だと笑います。私は見ているのです。そしてそれは貴方のせいです。貴方のせいなのです。
お母様。貴方は意地悪な人です。とても意地が悪い。外道だ。畜生だ。憎らしい。打ってしまいたい。しかし、しかしなのですよ、お母様。しかしそれでも私にとって貴方は唯一この世界で出会えた美しい人なのです。そうなのです。それが悔しい。悔しくて悔しくて堪らない。
いっそ貴方が彼らのようなキチガイで在れば好かった。このキチガイキチガイだと分かる人間が私だけならばよかった。貴方の声が聞き難いほどの金属で在ればよかった。貴方の肌が彼らのように、自らのかどうかも分からない体液にまみれ爛れてしまった鱗であればよかった。
お母様。私は苦しゅうございます。この世界で生きるのには、私は余りに目が見え、声が聞こえ、臭いを知り、肌が感じ、味に気づきすぎるのです。
私は貴方の教えの真意を知ることが出来ませんでした。貴方が私に丁寧に教えた、私の世界を殺してしまうような、美観など知らなければよかった。分からなければ良かった。
私の神経は確かなのですか? 私の心は正しいのですか?
私は最近酷く夢に見ます。貴方の夢です。幼い私が貴方に抱かれている夢です。夢の中の貴方は私が見たことも無いような慈愛に満ちています。私を恰も神の子であるかのように、まるで自らの命であるかのように、優しく抱き寄せているのです。私は眠っています。
この私が、貴方の胸で、心地よさそうに、微笑を浮かべながら、何も纏わず、眠りについているのです。
そして何より、世界は何一つ狂ってなどいなかった! 誰一人狂ってなどいなかった! 全てが美しい日差しに包まれていた! この私でさえも!
お母様。貴方はその夢から覚めた私の惨めな気持ちが分かりますか? その夢から覚めた、あの狂おしく叫ぶ私の気持ちが分かりますか? それとも貴方はただ、私の脳髄にあの狂人どもがやって来て、さも可笑しそうに幼い私を引き裂くのではないかとさえ、本気で恐怖し気が狂いそうになる私を見つめただただ微笑を浮かべているだけなのですか? あの忌まわしい夢が覚めた後の、どうしようもない貴方への愛情を必死に搾り出そうと、私の頭をミキサーにかけてしまいそうになる私を遠くから見つめて満足をしているのですか?
お母様。私は本当に酷く酷く疲れているのです。
私は貴方を完全に忌み嫌うことが出来たなら、そして私が一人ぼっちでいたならば、こんなにも世界が歪んで見えずにすんでいたのかもしれなかった。貴方が美しくなければよかった。貴方の美しさに私の真実を突き動かされるなど、そんなこと、私は望んでなどいなかった。
貴方は卑怯です。とても狡いです。貴方が私と同じように心を持っていることさえ許せません。貴方から生まれてしまった私が可哀想で可哀想で仕方在りません。私を私たらしめた、貴方を、私の命を懸けて否定します。貴方の癇癪も唐突な情緒不安定も、その身勝手でサディスティックな振る舞いでさえ、貴方の本当の罪に比べれば私は許しえるものです。貴方の存在こそが私の罰です。この、キチガイに溢れ常軌を逸したままお互いを食い散らかしている地獄に生まれてしまったという、私の唯一つの罪に対する罰です。貴方などいなければよかった。貴方など。貴方など。
しかし、お母様。お母様。私にとっては、貴方が全てだったのです。私にとっては、貴方が私の神だったのです。私は貴方を愛さざるを得ない、愚かな人間なのです。私は貴方の下僕なのです。
唯一理解しうる愛、だったのです。
お母様。暗闇です。とても暗闇です。
貴方が誰に言うでもなく呟いた、まことに夏は偉大だった、という言葉が忘れられません。ただそれだけです。
私はきっとこの正しき肉体のせいで、死ぬまで暗闇なのでしょう。
私はきっとこの正しき精神のせいで、死ぬまで暗闇なのでしょう。
お母様。私は、辛い、です。
お母様。私を、助けて、下さい。
お母様。私は、何時だって、死んでしまいたい、死んでしまいたい、死んでしまいたい!
唯一つ、唯一つ、この可哀想な私を少しでも憐れに想ってくださるのなら、この惨めな私を少しでも悲しんでくれるのならば、私のことを一度でも愛してくれたと仰りたいのならば。
お母様。どうか、貴方の命は最後までその美しさを失わないで下さい。どうか、その美しいままのお母様で在り続けてください。
私はこの暗闇で、せめて貴方の美しさだけを信じることができるように。
お母様。私は貴方を憎みます。
お母様。しかし私は貴方を愛さずにはいられません。
お母様。