いい加減食傷気味な議論だけれども、纏める為に。

またもや、セックスのことについてである。
童貞で醜男の万年自慰男、今風に言えば、非モテでキモオタのオナニーマスターな僕がこんなことを語るのはまさしくおこがましいとは思うのだが、このブログは決して誰彼の意見を統合し、其れの一筋の光を提示していくなどという普遍性や一般性を持ち合わせる必要がないところだと考えているので、飽くまで自分の考えをまとめ忘れてしまわないためにもこうやって何度も何度も新しい要素があれば若しくは見解としてまとまりを見せたものがあるならば、恥を忍んで書いていこうと思う。
さて、まず僕が見る分に、所謂大人の男性女性になるとこのセックスは割かし非日常から脱した日常的な営みで在り得ることは自明のことだ。
それこそ極端な話、一つのコミュニケーション手段として使っている場合だってあるだろうし、何かの駆け引きの道具、日常の中の潤い、娯楽やもしかしたら自己実現の要因として手段たらしめている人も割りかし居るのではないだろうか。
勿論これに反した、まぁ僕のような異性と縁のない人間だとよく当てはまる、崇拝じみた場合もあるだろうが、とりあえず其れはおいといて。
詰りは僕が思う「軽々しいセックス」とは恐らく上のような日常の中に溶け込みきっている関係の中でさり気なくやりとりされるものの場合だと思う。またセックス自体に対しての広く一般的にあるそういう認識こそが、僕を悩ませているといっても過言ではない。
僕が見る限りセックスは特別だなどとか性交渉は人生で出会った最愛の人とのみしか行わないといった古風といえば聞こえのいい何処となく排他的なその考えよりも、セックスなどなんでもない行動の一つの要素である、もっとさり気ないものである、関係性を深めるための一つの戦略であるなどという考えのほうが大人の世界(寧ろ今の社会的な思想感といったほうが好いのでしょうか、先生)ではなんと言うか格好が好いし、この人は分かっている、人間関係が巧みである、大人で頼りがいがあるなどという高評価を受けている気配が見受けられる。
其れが間違っているなどとは毛頭言う気はないし、恐らくそちらのほうが多くの人に賛辞されているのだろうから、大衆としてはそちらのほうが多かれ少なかれ(勿論先ほど述べた古風なものが魅力的だという人もいるだろうが)好まれる、とまで言わなくても、人々の考えの前提として敷かれるものなのかもしれないとさえ思う。
しかし、僕は残念ながらその賛辞されるべき大人の考え、と言えば何だか物を知らない餓鬼が知らないことをいいことに好き勝手言う場合の反骨の対象としての大人という象徴を安易に使っているように受け取られるかもしれないが別にそういったつもりはない、が余り肌に合わない。どうも苦手だ。恐ろしいと感じさえする。
其れが何故か、勿論僕が性交渉をしたことがないからといえば簡単だがそれではドウモコウモならないので別の視点から言述するならば、一つは恐らくセックスというものの繁殖活動部分にあると思う。
不用意にセックスをすれば子を授かる可能性がある。当たり前だ。そもそもセックスとは子を授かるための行為だからだ。其れを積極的に促すための快楽なのだから本能として脳に素晴らしい刺激を送ってくれる、はずだ。
ここで言いたいのは、別にだからといって子供を作る気がないならセックスをするなとかそう言うことで断じてないということ。勿論子供が出来たらまずい場合は避妊をするべきだというのは因果を考えてそうであるとは思うが、今の世の中は堕胎もできる(勿論推奨をするわけでは決してないし母体に負担がかかるから避けたいものだ)わけだから、そこら辺はお互いの相談の元様々な検討をして欲しいと思うだけだ。別にそういうことを言いたいわけじゃないから、睨まないで欲しい、恋愛が自在な皆々様。
詰りは人間が家庭を持ち子を育み生活していく、というものが少なくとも今の日本では一人一家庭であることなのだと思う。詰りはそこまでたどり着く上で、誰しもが自分にとって一人だけを選択するという点だ。
僕が前述した、「コミュニケーションの一貫としてのセックス」を恐ろしさを感じるほど苦手なのはつまりは、こうした今の社会と繁殖活動の関係性を踏まえた上でのセックスの決定力、肉体を通して明らかに決定される絶対的な一番、というものが不明瞭になるからだと考えている。
コミュニケーションというものは勿論その人間一人にとって対象が一人ではないということが重要だ。セックスの敷居を下げていけば自ずと同時進行で幾つかの他人と性交渉を行うという場面も出てくるだろうし、その中で勿論お互いが言ってみれば恋愛状態ではない人間とセックスする機会だってあるだろうしそれこそ一石を投じる意味でのセックスも発生するだろう。若しくは元々そういう関係を前提として取り払ったうえの好奇心や興味などに左右された其れもあるだろうし、モット言えば異性というのを利用したテイの好い関係の円滑のための其れだってあるはずだ。
僕は其れに対して恐怖を感じているのだ。
言ってしまえば、評価が付けがたくなるのを恐れているのだ。異性間の関係に於いて、一般的に肉体的な行動のもっとも特別性の高いものはセックスなんだと僕は今の今まで考えている。其れこそが一番親密である、お互いの合意の上でセックスをした人間同士こそがお互いにとって一番大切な人間同士であるという定義が凄く分かりやすく見ていて気持ちが好い。
だがそこに、先ほどから散々述べたようなセックスの敷居を下げる思想が蔓延したらどうなる。関係性の上で其々の人間同士の優先順位、もっといえば個人と個人の中の特別オンリーワン最愛の人、一人を選択するそれらの言葉に当てはまる人間が一見して分からなくなってしまいそうで怖いのだ。
勿論最終的には肉体的な関係ではなく精神に於いての其れが大切なのはよく分かっている。しかし飽くまで他人の気持ちを断定できることができないこの不便な社会である以上、精神の上での其れは不明瞭甚だしい。分かり難い。特に僕などはそういった相手の考えを信用できないタチなので余計に困惑する。
僕は分かりやすく在りたいのだ。関係性にゴールが欲しいのだ。大馬鹿野郎の僕だからこそ、アレコレ悩んで人を疑い関係性について不信をもって接すのもほどほどにして、そういった分かりやすい形で特別というものを見極めたいのだ。正直言えば面倒なのだ。精神の話をするときりがない上に流動的だ。行動によって決定付ければこれほどすんなりと分かりやすいものはないだろう。
勿論、例えばあなた方が全員残らず自分の考えを嘘偽りなく言い続ける機械ならば僕は決して恐れたりはしないだろう。寧ろそれならば容易に推奨だって出来る。構わなく随分と自由だろう。しかし関係性の罠は何処かしこに散らばっているから、そんなことなどあり得ない。
だからこそ、僕はもう決定付けてしまいたいのだ。自分の一番だけだと。決定付けてしまいたいのだ。人を信じられる素直な方々は今の状況でもなんら不思議に思ったりしないだろうが、僕には無理である。ゴールがないからいつまでも不安だ。猜疑心で気が狂いそうだ。言葉は全て裏を読もうとする。其れの繰り返しだ。
だからこそ、僕は今の「軽々しいセックス」は恐ろしく苦手なのだ。ドウダロウ、とても単純で思った以上に安易で下卑た理由だと思うだろう。僕は純朴でもなんでもないし、それこそ聖人のように美しい意見など吐けない。ただただ、簡易でいたいだけだ。
これを読んで恐らくお前はなんて詰まらない人間なんだと激昂される方もいるとは思うが、このブログは別に誰彼が賛同するための道理好く心地よく格好のよい意見を書くためのものではないので、悪しからず。
ドウデショウ。至極単純で分かりやすい理論だと思っているのですが。